reblogged from ctenolepisma
だからして、まず第一に、好敵手だけが馬上競技に参加する資格を認められたように、学者は無学者と討論すべきではない。なぜなら、彼は無学者を相手にして彼の最良の論法を用いることができない。彼らには、それを理解し考量するための知識が欠けているからである。この不都合を無視して、なおも彼らに判らせようと試みても、たいていは失敗するであろう。それどころか、彼らの粗悪な反対論法によって、彼らに劣らず無知な聴衆たちは、彼らの言い分の方に理があるように思いこむことにもなるであろう。それゆえに、ゲーテは言っている。
「どのような時にもせよ、
異を立てようという気になるな。
無知の人と争えば、
賢者も無知に沈むのだから」(『西東詩集』箴言の書二七番)
しかし、論敵に才気や機敏さが欠けている場合には、彼が真理と学習への誠実な努力によってこの欠陥を補ってでもいれば別であるが、さもなければもっと始末のわるいことになる。なぜかというと、彼はまもなく、自分がもっとも深い急所を傷つけられたと感じはじめる。そうなると、彼を相手にする人は、自分の論敵がもはや知性の人ではなく、人間存在の根たる彼の意志であって、それが手段をえらばずただ勝利を占めることのみをめがけているということに、ただちに気付くであろう。こうして、かような論敵の治世は、あらゆる種類の逃げ道や小細工や不正直だけに目をつけ、そしてやがてそこから追いだされると、ついには暴力沙汰にまで手をだすことになるだろう。それというのも、なんとかして自分の劣等感のとりかえしをつけ、論争者たちの身分境遇に応じて、場合によっては精神の戦いを体力の戦いにもちこみ、せめてここで自分に有利な機会を期待しようということになるからである。この点を考慮すると、討論のための第二の心得として、融通のきかない知性の持ち主を相手にして討論すべきではないという規則がでてくる。
ここまで言えば、論争の相手として付き合える人はさほど多くない、ということが判るであろう。そして実際のところ、われわれが本当に討論できる相手というものは、実は例外にぞくするほどわずかな人物なのである。これに反して、普通日常の人々は、誰かが彼らと同じ意見でないということだけでも、すぐにそれを悪意にとる。本当ならば、彼らの方こそ、誰でもが彼らに賛成できるように、自分自身の意見を工夫してもよかりそうなものなのに。実際はそうではないから、彼らと論争してみても、たとえ彼らが上述の「愚者の最終手段」に訴えるほどにならなくても、たいていは不愉快な思いをさせられるだけである。それは、論争中に、彼らの知的無能力にわずらわされるだけでなく、まもなく彼らの道徳的劣等さをみせつけられることになるからである。
ご自由にご解釈下さい|文武両道を目指す!~ペンは剣より強し~Q.
先の下河邉会長の発言からは、東京電力自身は福島第一原子力発電所の事故を防ぐことができた事故だと考えていないように感じられる。福島原子力事故の総括にある「防ぐべき事故を防げなかった」という言葉は、「防ぐことができた事故を防げなかった」という言葉と定義が異なる。委員会の答申には「”自己弁護に終始している”との批判を真摯に受け止め」とあるが、東京電力側の総括と委員会側の総括にずれがあるように思われる。このことについて、どうお考えか。
A.
- (クライン委員長)
- 東京電力があの事故が起こって欲しかったと思うわけがなく、地震または津波で命を落とされた2万人の人もこのような事故が起こって欲しかったと思うわけがない。今回の地震・津波は、自然災害として甚大なものであったことは疑いようがない。しかし、私は長年原子力安全に携わってきたが、原子力の世界では想定外のことを想定し、それに備えることが必要である。1999年に東京電力の社内で、仮説を立てて計算し、15.7mの津波が来る可能性があると試算していたことは評価されるべきである。その試算について協議した結果、そのような事象は起こるに足りないという判断をした。事故が起こった後に、防ぐべきだったか、防ぐことができたか、あるいは防ぎたかったかということを言うのは簡単である。しかしながら、私としては、東京電力に「もし非常に高い津波が来たら」ということを考え、対策を立てて欲しかった。このようなことこそ、今後、東京電力に培って欲しい安全文化の強化の側面であり、より保守的に判断をして欲しいと考えている。



